* 思い出

今日は雪蕾の結婚の日だ。思えば彼女と初めて言葉を交わしたのは四年前でハスキーな声で日本語の上手な人という感じだった。それから数ヶ月後中国の娘宅を新品のスクーターで颯爽と現れたのが彼女でそれが初対面である。いろいろ話ていると「日本に行きたい、姉は日本の岐阜県で働いており、妹は結婚し、今お母さんと暮らしている、お父さんは自分が17才の時亡くなった」と初対面にしては随分詳しく話してくれた。それから後、もう寒くなった頃縁とはおかしなもので娘、孫とスーパーに買い物に行った時、母親、娘達三人と偶然出会わした。柄の大きな愛想の良い母親であった。一昨年彼女に日本男性を紹介すると写真を送ったら見合いをしてもよいとのことで,国慶節の頃北京を見合い観光した。(男性側の希望で)結局彼女の望みは叶わなかったが色白(中国人は色黒が多いような気がする)でポチャポチャした体型には洋式のウエディングドレスの方が似合うだろう。赤い車にたくさんの花飾りを着け近所の人々に祝福を受け見送られたであろう。彼女の姉は結婚生活がうまくいっていないみたいだから絶対に幸福になって欲しい。日本での幸せを夢見たそれ以上の幸せを

* サイレン

戎ケ下地区のパソコン、ブログの仲間の皆様方近火お見舞い申しあげます。
火災発生の時刻頃私たちは散歩途中であった。サイレンを聞くと私は開口一番「このサイレンを聞くとビクッとする」彼「どうして?」「戦中、空襲警戒警報のウゥウゥーという音をあっちこっちのサイレンが鳴るンでね。」
予科練時代大阪方面は毎日空襲があった。特に夜襲が多くその度身の回り品,銃器を持って避難しなければならず寝不足で昼間牛の鳴き声を聞いてもビクッとしていた。伊丹で課業していたがサイレンが鳴ると警戒管制の網を潜り抜けて来るのか十数分でグラマンの襲撃を受ける.一度我々の班も銃撃されたがその弾たるや小指程もありヒャとしたことがある。連日がその有様で行き帰りの電車ではつり革にぶら下がって馬のように立ったまま居眠りした。サイレンでノイロウゼになつていた私は今でも当時のことは忘れられない。みなさまどうか火元に気をつけてサイレンの音を聞かないようにしましょう。