あなたは私の妹みたいなもの

 戦後もう65年になる。沖縄はその年の6月に決戦が終わりたくさんの犠牲者が出た。特にコザでは300人の孤児が残され16歳〜19歳の少女を教師に、コザ孤児収容所が被災を免れた民家に開かれた。中には自分の身元も分からない幼い子どもいた。多くは子どもを無くした人にもらわれたりして生き延びてきた。もらわれても馴染めず、転々とした子どももいた。

 65年経った今、米国に保存されていた映像が公開され、当時の収容所に関係する人たちが集まった。当時4歳の女児、身元が分からず、付けられた名前はコザよし子、結婚し孫にも恵まれたが決して幸せな人生だったと思っていない。戦後、よく尋ね人というラジオの番組や、新聞の広告があったがそれらで情報を得ようとしたが得られず悲しい思いをしてきた。

 しかし、65年前の映像で教師だった先生と再会、身元の確認は出来なかったが、自分の名前の由来が分かり、当時の話をすること出来た。別れ際、自分の境遇を今も不幸だと嘆いているよし子さんに、先生は贈り物をされた。「あなたは、私の妹みたいなもの」と言葉を添えて。そのネックレスを押さえて「私はやっと幸せになりました」と涙ぐんでいた。

 私も戦後、小倉の米軍補給所で働くボーイと呼ばれる子どもたちを多く見た。それと沖縄の孤児たちが重なり涙が溢れた。以上は、NHKのテレビで見たものだが、画像の中には、同じ収容され、やせ細った弟が、4,5人の孤児とタンかで治療に運び出され、帰ってこないので探したら大きな穴にほうりこまれていたと話す元収容者がいた。