懐かしい島

 NHKのテレビで「にっぽん縦断こころ旅」と言う番組がある。

 視聴者からの思い出の地として、心に残っているあの場所を、再び訪れたいと言う望みの便りを元に、俳優の火野昇平さんが自転車で訪ねて廻る。

 山陰の角島を廻り、山口県の下関から人道の海底トンネルを通過して福岡県に渡る。便りは東京からで「50年前、幼かったころ行った福岡県の馬島で、海女さんがいたあの美しい島が懐かしい」というものだった。

 いよいよ火野昇平さんは、小倉の馬島に渡る渡船場に着き、単身島に渡った。私の目にも懐かしい波止場、海の色は昔と変わらぬエメラルドグリンで人もまばらな静かな島だった。

 実は、私もこの馬島で数ヶ月過ごした懐かしい島である。

 戦争が終わったあくる年、中学四年だった私は、予科練帰りのよそ者で、友達も少なく、これからの希望なんて無い淋しい少年だった。人を介して知った馬島通いの船長を頼って夏休みを島で暮らしていた。毎日海を眺め時には海女さんの潜るのを真似て貝、海草を採ったりした。島には水田は無く、まして食料不足の時代で、芋が主食で採った貝海草も腹を満たす材料となる。夏休みも終わりに近い、ツクツクボウシの声が耳にやかましく響くころ母から手紙が届いた。

 「兄がビスマルク諸島にて戦死した」という知らせだった。兄は十八歳で海軍の学校に進み、出て、すぐ南方の海域で任務についていて、便りも学友からの「共に元気で勤務している」という便りをもらっただけの割りと縁の薄い兄弟だった。なんで、なんで今頃、戦争が終わって一年になるのに、生きて帰ってくるのを信じていたのに、私は、兄が帰ったらと兄の生還になにか希望をだいていた。兄に対する希望は父母以上にあった。私は波止場に無意識で向かっていた。波止場に立った私は、とめどなく流れる涙とあたりをはばからぬ泣き声を止めることができなかった。悔しくて悲しくて!

 あれから六十五年、今も静かな島民四十数名の島は、わけぎの産地として有名で、便りにあった海女さんは当時は韓国から来ていたということだった。